こうふりはいつからこうふりになってしまったのか

みなさんこんにちはこうふりです。


ブログタイトル。そんなのお前、全落ちしたあの日からだろ。とか言わずに聞いてください。


僕自身、自分の思考が偏っているということに、きっと世界の誰よりも気づいています。当たり前ですが。


小学生の頃から、周りとの意見の違いは数々生じてきた中で、目を逸らす方が難しいです。360度違和感で囲まれていますし、目を閉じていたら生活できないですからね。


これがポジティブな方向に働けば、きっと誰も思いつかないような発明とかできたのかもしれませんが、残念ながら僕は、受験者のうち三人に一人が難なくパスできる試験をパスできないレベルの知能しか持ち合わせていなかったので、叶いませんでした。


少し話が逸れました。いつからこんな偏った思考になってしまったのか。という話をしたいんです。


えっと、実は全くわかりません。ですが、この辺かなぁというきっかけが積もりに積もって、徐々に今の思考に落ち着いてしまったというような考え方はできます。



具体例をあげましょう。あれは忘れもしない、小学校四年生の時です。


椅子を引くいたずら、ありますよね。あれを僕は放課中(休み時間)にやられて、めちゃくちゃ友達にキレたんです。未だ嘗てないほど。なぜかといえば、それは危険だから。いたずらの領域を超えている。これは暴力だ!と、僕は怒ったのですが、それは今の解釈。当然小学生の頃の僕は語彙力がありませんでしたから、「しね!」くらいしか言えませんでしたね。ただ、それが危険な行為だと気づけていたのは、間違いなくその空間では僕だけでした。


いたずらが成功した瞬間、クラスメイトは笑います。さらに、僕が怒ったのを見て、もっと笑いは大きくなる。悔しかったです。その悔しさに対しての怒りだったのかもしれません。


危ない!という意を伝えたくても伝えきれず、イライラが募った僕は、机に伏せて泣きました。やがて、次の授業が始まります。今でも覚えていますよ。次の授業は理科の授業でした。太陽の黒点を記録する。的な授業だったので、外に出ないといけなかったのです。


僕にいたずらを仕掛けた友達は、僕に、「早く来いよ」と言います。まるでさっきのことなんてなかったかのように。


僕は頑なにそこを動きませんでした。なぜなら、椅子を引くいたずらが危険だと知って欲しかったからです。しかし、願い虚しく、教室からは誰もいなくなります。


だいたい、十分くらいですかね。小学生の忍耐力なんてそんなものです。僕は外に出ました。そして、何があったかなんて忘れている友達に混じって、授業を受けたのです。


先生は何も言いませんでした。言い忘れましたが、小学生の頃の僕は大変泣き虫で、頻度でいうと、オリンピック期間の織田信成くらい泣いてました。だから先生からすれば、また泣き虫が厄介ごとで泣いてらwくらいの意識だったのでしょう。





エピソードはこれで終わりです。えっ?そんなこと?って思うかもしれません。しかし、僕は今でもこの出来事を覚えているということは、今現在の、こうふり思考の礎になっていると言って間違いはないでしょう。


要するにこの出来事で僕が得た知識は、基本的に僕以外の人間は、頭を使ってないということです。あくまでこの部分だけを切り取ったらですよ?


しかし、これが例えば、「椅子を引くいたずらを世の中からなくすため、警告しよう!」と、善の方に働けばこうはならなかったのですが、僕の場合は残念ながら、「自分以外の人間は等しく頭が働いてない!いかなる出来事でも!」となってしまったのです。


こんなエピソードもあります。あれは中学二年生の時。仲はそこそこ良かったけれども、正直うざいところがある部活の友達が、鼻血を出したのです。


その子はその鼻血を、僕になすりつけ出しました。そこで僕は、めちゃくちゃ怒ってしまったのです。


「こら!エイズだったらどうすんだよ!」


と。


まぁ今なら絶対そんなこと言わないのですが、中二病だし許してあげたい。


この時の僕の意としては、「血液を相手に無意識につけることの危険性をお前はわかっているのな?」だったのですが、その友達と、周りにいた友達が受け取った意は、「友達のことをエイズ呼ばわりした!」になってしまったのです。


ここでも、なんて頭の働かない奴らなんだ。と、僕の思考は曲がりました。なんかここまで書いてると、周りの人にも恵まれなかったのかなとか言い訳したくなりますが、やめておきます。僕は自分が間違っていることを自覚しているので。


危険性、というものに、執着心があるのかもしれません。だから友達にいたずらを仕掛ける人間の意図が正直僕にはわからない。危険性を知った上でやってるのだとしたら、それはまぎれもない悪だし、知らないとしたら無知すぎる。しかしみなさんは、そのどちらでもないといったような態度をとることが多いですよね。


ここに一つの共通点があります。


日本人特有の、周りがやってるからいいや理論。


危険性についての思考回路が消え失せているような気がします。


そのくせ、現代では、「不倫が蔓延ることの危険性」「未成年に対しての性的暴行が蔓延る危険性」「上司の部下に対してのハラスメントが蔓延る危険性」について、日本人は敏感です。なぜでしょう。この違いはいったい。


ちなみに僕は、先にあげた三つに全く興味がありません。これはもう、逆張りオタク笑と言わざるを得ないのでは。いや、わかってます。何度も言いますが、自分が間違っているのはわかっているのです。


その上で、少しでもいいから、同じ考えの人に出会いたいなぁと思うことがあります。今まであったことがありません。あっ!同じ考えかな?と思ったら、ただ世間に無関心な自分に酔ってるだけの人とか、単にネット環境がなくて何も知らないだけの人とかってことがほとんとです。


このブログを書いている意味はそこにもちょっとあったりなかったりこうふりあります。今回は、危険性の、しかも極めて自分勝手な部分だけを切り取って書きましたが、1億人の内、一人くらい共感してくれるといいですねぇ……。